ゆるゆるとつくっております。少々お待ちを。

熊野でチャネリング(の前に)メモ2

熊野でチャネリング メモ2 鳥居と八咫烏

熊野での2回目のチャネリングが行われるまでのメモです。

1度目が終わってから、大斎原~熊野本宮~玉置神社と回っています。

目次

3日目/5月12日(水)

大斎原鳥居

・大斎原。もと熊野坐神社があったが、明治22年(1989年)の水害で流出、現在の本宮の場所に残った社殿が再築された。

・広い空き地。中央に、2本の楠に挟まれて祠がふたつ。狛犬が守っている。

・供えてあったろうそくに火をつけて拝む。

・ゲートボール場のベンチで瞑想。小学校の運動会の放送が聞こえている。
「1・2年生は玉入れ。3・4年生は風船割り。風船が足りないので一度だけ。」その声で導かれる。

この放送の絶妙なタイミングは「上↑」の仕業というか、思惑通りのはずです。
この小学校の放送の「一度だけ」がポイントで、「一度だけだよ」と「上↑」の存在が言っているのだと思います。
「玉入れ」も「玉を取る」ことと関係しているのかもしれません。

・身体がどんどんしたに下がって行く。ベンチを降り、土に座る。身体を丸め、両手を土に付ける。奥深くの場所に、玉置神社-本宮-「高倉」とつながっている微妙な線(?)のようなものを感じる。本宮の近くにまだ大斎原につながっていた場所があり、それを切り離して素早く戻って来る。小学校の放送が役に立ってくれる。

・本宮にお参りに行く。「古道」の方を登る。

熊野本宮大社

・拝んだ後、ももが社の右側をしきりに気にする。行って見るが、低い急坂になっている。

・学生の後について、古道を社殿の裏へ行く。舗装道路に出、社を回る。

・坂の上の石仏。ももが視線を合わせてびっくりする。

・気になっていた場所にあがる。竹林。墓か石碑か、苔に覆われて倒れているものもある。何だか腹が立って来て、身体が熱くなる。

・ももが話をする。なぜ自分たちがここにいるのか解らないらしい。上にあがるようにと言う。

石仏というか、石仏の主と話したのだと思います。 

・戻って夕食。すぐに会計。

・眠くなる。ももは毛布を着たまま、その場で横になってしまっている。わたしは布団を敷き、その上で毛布にくるまる。

・いろいろなものが話をしてくる。また、しゃべり出しそうになる。

・チャネラーの眠りについて話をされる。ただの睡眠ではなく、身体以外の周波数を取り扱う時に起こる。

・勉強する。

・玉置-本宮-那智のつながり。同じ物質の含まれている(あるいは同じ組成の)地層同士を共振させ、信号を送る。

・頭のてっぺんがしびれて寒い。

・昨日のエンティティとも波長が合わない。周囲の波長が穏やかすぎる。チベットと比べてしまう。

昨日のエンティティとは、「ア」(巫女)です。

・「PRECISION ENERGY」PRECISION=精密な、正確を期待しうる

・これらが活動すると、人の第8・9のチャクラに影響を与える震動を発生する。

トリさんは英語が堪能だったそうです。英語で自動筆記(手が勝手に動いてメッセージを書く)をしていたとか。
「これら」は何でしょうね。玉置-本宮-那智のつながり、でしょうか。

本宮のある場所  以前は「熊野牟婁郡音無里」といった。「音無」とは「静かにしろ」ではなく「虫や鳥すらなかない」という意味。
つまり毒性のある気体の噴出により、生き物が生育できなくなったことがあったのではないか。

トリさんの考察です。

地質 『熊野中辺路-歴史と風土』

・1300万年前 紀南が浅い海底だった。

・マグマが上昇したが、地表近くで冷えて固まった。これを「熊野酸性岩」という。火山岩に近い組成で、結晶が粗粒。水分をよく含み、柱状節理する。風化すると荒い石英質の砂になり、植物がよく育つ。

・酸性岩の周辺には堆積岩の層があり、これが那智黒石と呼ばれるもの。

・大雲取山-熊野酸性岩の岩体。周囲が崖で、頂上が台地状に平らになる。

4日目/5月13日(木)

・晴天。何だか珍しい。

・朝食を隣の店で食べる。

・もうで餅。背中がぞわっとした。

・大斎原で瞑想。今度は地面にビニールを敷いて座る。

・鳥居の手前にあった玉石を動かす。エネルギーがあがってくる。封印を解いた、という感じ。

・大斎=大湯。

・タカクラ-カタクラ-カミクラ-ミカクラ。音が通じるものがある。「蔵」とは保存用で、変質を防ぐ。「倉」とはただためておくためのもの。

・タクラ・ルプク寺=タカクラ。(西蔵、蔵王)

・山が崩れてくるような感覚がある。記憶?

・午後熊野古道の大日越えをする。風が通らない薮のような道。直登・直降の道。

・途中で竜を書いた紙を一枚燃やし、塩でお清めする。

ことば、特にその音について考えることは、「あちら↑の世界」をとらえる上でとても大切です。例えば「カミ」という同じ音で髪、紙、神、とありますが、髪にも紙にも神が宿ります。髪が長いほうが霊体と話しやすいと聞いたことがありますが、良くも悪くも憑依されやすい、という意味です。鏡(カガミ)も似ているのかもしれません。漢字は表意文字なので、見ただけで意味をそのまま理解しがちですが、大陸から入ってきたときに音に合わせただけの場合もあるので、太古の昔から日本に伝わることばの響きで物事をとらえてみると、「上↑」からのメッセージが読み取れることもあります。ことばの意味を音で考えてみる、という方法は、とてもおススメです。

ヒキ

それで自分の守護霊からのメッセージが分かったりするよ。

5日目/5月14日(金)

・曇り。途中から雨が降り出す。

・バスで十津川温泉へ。バス停近くのタクシー会社でタクシーを頼み、玉置神社へ。

・神社への登り口は、十津川温泉と折立の2つ(玉置山の西側では)あり、どちらからでも12キロ。

・急な坂を登る。ところどころで運転手が止め、説明をしてくれるが見晴らしが良くない。

・駐車場。周囲に霧が立ちこめている。

・参道を歩く。木々が風に揺れて鳴っている。

玉置神社

・神社。鳥居を避けて登り、拝む。何だか機械的な気配。ももは中で「決まってしまったんだからしょうがないじゃないか」という声を聞く。

・「鍵がきた」「ぴったりだ」という声。

・裏の岩に触る。奥に玉がある。瞑想して取って来る。だいぶ慣れた。

・社務所へ。中に狩野派の襖絵があると運転手に聞いたので、お金を払ってあがらせてもらう。「旭鶴(ひづる)の室(ま)」「鶴の室」「老松(まつ)の室」「御殿の御室(ま)」などがある。

・「ま」とは「間=BETWEEN」「室=ROOM」。隙間と四方が覆われているものとの違い。

・茶を飲んでいると、神主が衣を来て出て来た。何人も来る。ももと追いかけて行くと、奥の畳敷きの社殿に入って行く。見ていると、どうぞと言われたので中に入る。

・正面に神棚。向かって左に白衣の神職が4人。右に白衣の神主(禰宜)が一人と、衣に緋袴の巫女(男だ!)が二人。正面に白いはんてんの人が3人、その後ろに女性がふたり。正面の左側に座ったが、前に誰もいない。

・式が始まる。様々な儀式。

・正面の扉を開く。神職が正面に集まって礼をし、お辞儀をして「おー」と声を出す。

・禰宜の祝詞を聞きながら瞑想。

・三角錐がふたつ集まって動き始めるビジョンが見える。

・ももが中座。皆が榊を捧げている間にわたしも出、トイレへ。

・戻るとももが神職から、「餅をまくので拾って行ってください」と言われたという。

・儀式が終わり、建物の中で餅まき。左眼に当たる。

・玉置神社は本殿、三社、出雲社の3つの社がある。本社の祭礼は10月24日、三社は3月の初午の日。この日は出雲社の、年に一度の例大祭だった。

・朱印をもらい、タクシーへ戻る。2時間半も経ってしまっている。運転手に餅をあげる。

・「玉置」という名前は、山頂にボールのような石が置いてある所からきているという。

・十津川町役場(十津川町小原)へ。湯泉寺温泉の前で下車し、昼食。

・役場へ行く。資料をコピーしてもらう。

・向かいにある歴史民俗資料館へ。

・バスで湯の峰温泉へ。

・竜がたくさん南西方向へ走っていた。

・店でラーメン、コロッケ等を買って夕食。ろうそくも買う。

・また、泥のように眠る。

☆十津川村歴史年表。(歴史民俗資料館)

BC71(崇神天皇27)道主命の命を賜り、玉置神社を建立。
858(テンアン2)         智証大師玉置山に登り、四方加持し、これより神仏習合となる。
1331(ゲンコウ1)       大塔宮護良親王十津
1335(ケンム2)    十津川郷南朝に奉仕し忠勤を励み、吉野朝廷の直轄地として古来の如く勅免地と定められた。
1596(ケイチョウ1)       大地震で伏見城が崩壊したため、御用を仰せ付けられ伏見へ罷質で作業に従事する。
1691(元禄4)         玉置山寺院京都安井門跡に属する。
1727(亨保12)        玉置山寺院京都聖護院門跡に属する。
1786(天明6)   全国的に飢饉にみまわれ、十津川もそのあおりを受ける。
1815(文化12)        これまでにない大洪水で田畑や家が流された。
1839(天保10)  飢饉激しく、餓死する者が多かった。
1868(明治1)  神仏分離の命に伴い、4月15日玉置山の廃仏が断行された。玉置山は玉置三所大神と唱える。
1871(明治4)  4月より玉置神社と唱える。
1889(明治22)       8月未曾有の大水害に合い家屋被害610戸、死亡した者168名、山林田畑の被害甚大、山岳崩れ1080ヵ所、新湖37ヵ所に及び、約600戸北海道に移住し新十津川村を開拓する。
1961(昭和36)  風屋ダム完成
1962(昭和37)  二津野ダム完成
1976(昭和51)  朝日ダム完成

6日目/5月15日(土)

・夜中(朝)2時頃二人とも眼を覚ます。神様(魍魎とあまり変わらない?)がたくさんのぼって行った。

・晴れ。

・餅を店の人にあげる。

・向かい合って玉を使ってみる。結界のようになり、どんどん大きくなる。風が避けるように、巻き込むように吹く。

・本宮までバス。

部屋で

・4隅に竜の紙を何枚かずつ置き、塩を乗せる。

・布団を敷き、部屋の中心にハンカチを敷いて、灰皿にろうそくを立てる。玉置神社の朱印を置く。甘夏とリンゴ、酒を供える。ろうそくの周囲に、餅を6つ並べる。ももの数珠も置く。

・ろうそくをつけて布団の上でチャネリング。録音状態が良くない。→チャネリング②(1993.5.15)

★チャネリングに付属した情報

・最初に出て来た人を「アレフ」と名づける。

ヘブライ語の一文字目です。「A」や「あ」と同じです。

・ももは色が感じられなくなり、結局ろうそくとその周囲、テープをひっくり返す時のレコーダーだけが見えている。

・時々酒の香りがする。意識が戻る、と言う感じ。

・供え物のリンゴは変質していて味がおかしい。ももは梨のような味だという。全部は食べなかった。甘夏も味がおかしくなっていて、ミイラ化したようにすかすかになっていた。

・プジャーについて。現実の世界、部屋に戻って来るのに役に立った。特にろうそくの光は、変な音波も出さないし確実に明るいので、意識を集中させてそこに戻るのに非常に役に立った。暗闇であれば戻って来られなくなったろうし、電気をつけていたら集中できなかったり雑音が入ったりして、もっと時間がかかったりしたかもしれなかった。

プジャー プージャだと思います。ヒンドゥー教のお祈りで、神様の絵や像の前に花や果物を供えます。この方法を、今回のチャネリングで取った、ということだと思います。

・頭の中に質問が浮かんでくる(入ってくる)が、それを捉えて言葉にするのは非常に難しい。答えが先にあって、その答えを導きだす正しい質問をしなくてはならない、という感じ。質問を考える方が時間がかかり、アレフが答える方が早かった。

・アレフの周波数。記憶にあるというか解りやすい、なじんでいるという感じ。向こうがしゃべる前に答えが解っていることもあった。

・ももが全然知らない空間(ぐにゃっとした空間)に入って行くのは面白い、と言う。

以上がチャネリングの前のメモです。

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